曹洞宗 積雲山
長安寺について
長安寺(ちょうあんじ)は、新潟県十日町市(旧川西町元町)にある曹洞宗寺院です。室町時代末期にあたる1570年(元亀元年)、信州岩村田(長野県佐久市)の龍雲寺の末寺として鳳庵存龍和尚により開かれました。
2020年(令和2年)には開山450周年を迎えました。現在の住職は、二十八世童海真隆和尚です。
本尊
釈迦牟尼仏
霊場仏
千手観音菩薩
妻有百三十三番霊場
第九十九番に指定されています
史跡
寺から仰いで西方の小高い山並みに節黒城の跡がある。南北朝時代の1352年(正平7年)に築城され、新田一族の拠点であった。節黒城の名は急いで築いたために砦の木が素材のままで節が黒々と残っていたことに由来する。戦国時代には上杉謙信傘下の上野氏の居城となり増修築され、妻有地方で最大級の山城となった。
由緒
南魚沼郡塩沢町雲洞、曹洞宗雲洞庵第十世北高全祝が武田信玄に招聘され永禄年間(1558~1570年)に中興した信州岩村田の大田山龍雲寺が長安寺の本寺である。北高全祝は弟子である鳳庵存龍に命じ、仁田の旧跡に岩村田龍雲寺の末寺として同じ寺名の龍雲寺を造らせた。その後、上杉謙信と上杉景勝に仕えた節黒城主上野中務長安が鳳庵存龍の下で修行し、心翁永伝の道号を受ける。そして、1570年(元亀元年)上野中務長安が開基となり、寺を現在の地に移し、己の名を付して寺名を長安寺と改めたと伝えられている。
領主の寄進
1570年(元亀元年)、長安寺創建の時、現在の境域が寄進された。1614年(慶長19年)7月5日、高田城に入った松平忠輝は、その祖結城秀康菩提のため、茶湯料として26石1斗9升5合の地を寄進した。その後頻繁に領主の交代があったが、1635年(寛永12年)八月、時の領主越後中将松平光長の寺社奉行本多七左衛門忠重の黒印で、家康菩提の茶湯料として1石が寄進される。その後、越後騒動で光長が改易となり幕領となった翌年の1682年(天和2年)に一斉に検地が実施された。その際、先の寄進分はそれぞれ除地とされた。
寺宝
寺宝として、前記の領主寄進状、諸古文書類の他、黄檗版大蔵経(全巻)、江戸駒込吉祥寺の大訥愚禅が拝領したという袈裟と坐具を伝えている。